癌を振り返って
午前中は先日お会いした某メディア関係の取材。
以前お受けした某国営放送の取材は、あらかじめシナリオが設定されていて、そこに患者をはめ込んでいくような感じがしたが、今回はちょっと違う感あり。癌患者を媒体として、癌という病に「もう一歩踏み込んで」光をあてようとしている。ドキュメンタリーに近いのかな?まとめる側はとても難しいと思うが、闘病記以外で、1人の患者をそこまで掘り下げた記事なんて、今まで私は見たことがない。面白そうだ。
記者の方から「あれはどういう感覚?」と聞かれて、自分でもその気持ちの素をうまく説明できなかったことがあった。その“感覚”について少し考えてみたい。
社会復帰を果たし、“パジャマを脱いだ社会人”になって半年。最近、世間や会社の同僚と微妙な「温度差」を感じてしまうときがある。人生観とか仕事観とか、、、今までは先陣きって「仕事じゃー!」って旗を振っていたけれど、なんかそういう気が起きなくなっている自分がいる。でも同僚は相変わらずなワケで、、、そういうところに「微妙なズレ、違和感」を感じてしまうことが多く、ちょっぴり寂しかったりしている。
朝の通勤時間帯などは、特にそうした違和感や差別感を感じてしまうことが多い。一心不乱に歩いている人、われ先へと電車に乗りこもうとする人、規則正しくホームに並んでいる人の列、列、列。そんなことに一生懸命になっている人をみると、「ザザザー」っと自分が引いていくのだ。そういう風景を遠くからみている自分がいる。
この違和感って何なんだろうなぁ?もうああいう風には働きたくない、働けないって思っている自分のひがみなのかなぁ?違うよな~。
「軽蔑する」というよりは、「可哀そうに」って思ってしまう?「人生にはもっと大切なことがあるよ、早く気がついて」って。達観しちゃう自分がいる。それが、温度差とか運命の差別感を感じる気持ちにつながって、そういう世界に戻れない、戻りたくない自分、戻ることを恐れている自分を「哀しい」と思うのか?
BC時代は「自分だけ」だった。自分で給料稼いで、自分で好きなことやって、自分で人生を計画をして、、、。他の人の存在、その大切さや巡り合えた偶然性に気づかなかった。日常的で、当たり前のことだと思っていた。絵に描いたような働き盛りの30代だった。
手術が終わった夜、ベッドの中でみた死の幻覚。思わず「助けて!」と手を伸ばしても、そこには静寂しかなかった。あの夜、「人はひとりじゃ生きられない」、「ひとりでは死にたくない」って実感した。人は、人を支え、支えられながら、生きて、そして死んでいくんだってことに気がついた。
だから、そういうことに気がつかずに生きている人をみると、BC時代の自分をみているような気がして、差別感やら、温度差やら、ぐちゃぐちゃの感情がわいてくるのか?立花隆氏の「宇宙からの帰還」とか、「ベルリン天使の詩」にでてくる天使のような感覚。もう昔の自分には戻れない、と思うのだ。もう少し、じっくり考えてみたい。
午後はシネスイ銀座へ映画鑑賞。本当は、「ホテル・ルワンダ」を狙っていたのだが、3月4日以降が本格上映。「かもめ食堂」の前売りもゲトーしておきたかったので銀座へ。
観た映画は「イノセント・ボイス 12歳の戦場」。メキシコ映画。監督はルイス・マンドーキ。1980年にメキシコのエルサルバトルであった政府軍と反政府ゲリラとの内戦が舞台。12歳になると少年兵として徴収されて、銃を持たされ、戦場へと駆り出されていく子供たちの物語。
やんちゃ盛りの子供たちの日常が、大人達の勝手な仁義や思想のために壊され、簡単に破壊されていく不条理。主役のいカルロス・パディジャという男の子の演技がすばらしい。目の色が物語の後半に近づくのにつれて、どんどん憎しみの色へ変わっていくのだ。
号泣するような映画じゃないけど、考えさせられる映画だった。いつも翻弄されるのは弱者なんだ。
最後にテロップで流れていたけど、世界中で30万人以上の子供が兵士として働かされているそうだ。
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
今日はきゃんべるさんの哲学的側面のお話しをしんみり伺いました。おもしろいきゃんべるさんも好きだけど、このような感性のきゃんべるさんもとても素敵ですね。映画の内容も聞いてるだけで切なすぎます。私も病気になって感受性は数段アップしたような気がしています。これは良い副作用ですね。某メディア関係の取材内容発表の時はお知らせ下さい。
投稿: tumabuki | 2006年2月28日 (火) 23時14分
違和感について
私の違和感は、ただ歩く事だけでもさっそうとは歩けない。
何一つ先の約束が出来ない。
元気な人が羨ましい。
癌になって知った色々の事、それは正直感謝の気持ちです。
でも、体力の低下と、何時何が有っても不思議ではない現在を、悲しいかな 元気な皆さんとの大きな隔たりとして垣根を張り巡らさねばならぬことが現実です。
大きな 大きな違和感です。
投稿: 享子 | 2006年3月 1日 (水) 01時02分
違和感。私も、感じます。
そうか、これもみなさん同じなんですね。
マンションの下で子供を遊ばせながら、おしゃべりに花を咲かせるママ友たち。私も、つい最近までその中にいたのに。
先日、そんなママ友が集まってのランチ会がありました。もちろん、とても楽しく参加しましたが、なんか周りのみんなと自分は違う世界にいる感覚が、どうしてもぬぐえませんでした。
病気のことも、まだママ友には、一人(薬剤師さん)にしか告白していません。他の友達には、まだ症状をところどころ話しているだけです。
投稿: yue少納言 | 2006年3月 1日 (水) 10時13分
こればっかりは、しょうがないのかもしれないですね。
どうしてもかみ合わない部分があります。
腹立たしかったり、悲しい思いもしたり…。
彼らは生きていることを大切にしていないんですよ。
それは私もBC時代はそうでしたから。
ただ早く前に進んだだけ。進もうとしただけ。
でも、私はガンになって良かったと心底思っているんです。そうでなかったら、未だに私は命を大切にしていないんですよ、きっと。
そんなふうに思ってるんです。
(たまにはマジメよ)
投稿: rider | 2006年3月 1日 (水) 19時11分
みんな考えているんですね。
それほど、この病気の影響力って大きいのですね。
投稿: きゃんべる | 2006年3月 1日 (水) 20時12分
こんばんは。毎回もきゃんべるさんの考えに納得しています。本当に人って支え合わないと生きていけないんですよね。他人の命も自分の命も大切ですね。子供を兵士にする国って最低ですね信じられません。某メディア取材の内容楽しみにしています。ワクワク(☆☆)!!
投稿: さかな | 2006年3月 1日 (水) 21時14分
違和感、温度差 一言一動に???って思うようになって久しいです。他人の痛みなんて所詮わからないんでしょう、いや分かりませんでした。イッパイ病気をしてきた私でさえも「のどもと過ぎれば」状態ですもの。がしかし今回はちと違う。恐怖心といつも一緒だけど明日、明後日。来年・・二年後ずっと人生続けたいと思う。一人で生きていける!と勘違いしていたことを痛感させられています。取材記事公開の予定を是非お知らせくださいね。
投稿: メリー | 2006年3月 2日 (木) 06時45分