« 今日のキャンベル湖 | トップページ | 私の値段7195万円也 »

2006年2月 7日 (火)

死生学・癒しの庭

某園芸学校のA先生の講義。テーマは死生学・ターミナルケア。

うちは親が尊厳死協会に入っていたり、白菊会(医学用の献体・うちの親は骨まで献体)に申し込んでいたりしたので、病気になる前から死生学には興味があり、代表的な作品は読んでいた。それなりに自分の死生観、心構えはできていたつもりだった。でも、実際に、リアルに「死」という現実に直面したとき、そういった「観念的」なものは、何も救いにならなかった。消し飛んだ。

手術した日の夜。モルヒネの副作用で“天井が落ちてくる・身体が溶けてベッドに沈みこんでいく”という幻覚をみた。周りには誰もいなくて、夜の闇だけがそこにはあって。そのとき、初めて“死ぬのが怖い、死にたくない!”って思った。自分の中に、こんなに生への欲求があることに初めて気がついた。身体を動かそうとしても、あちこちから管が出ているし、痛みがはしって、寝返りすら手伝ってもらわないと出来なかった。あの日の夜におきた出来事は、一生忘れない。それまでの価値観、死生観を全てひっくり返すほどの衝撃だった。

「楽になるなら」と、宗教へ救いを求めた。なんだかんだ言っても癌は死に結びつく病気。しかも不確実性がつきまとう。少しでも気が紛れるならと、宗派を問わず、むさぼりつくように本を読んだ。でも既存の死生学に書いてあることは、健康な人が考えた理想論ばかり。観念的にはわかっても、何の支えにもならなかった。信じることは生きる自分への妥協としか思えなかった。

20070207 そんなとき、1冊の本と出会った。「死を見つめる心(著:岸本英夫)」。岸本氏は宗教学者。敬虔なクリスチャンの家庭で育った人だ。その冒頭部分に「わが生死観」という題名で以下のような記述があった。因みに、この論文が彼の遺稿。

「生死観を語るには二つの立場がある。第一の立場は生死観を語るにあたって、自分自身にとっての問題はしばらく別として、人間一般の死の問題について考えようとする立場である。

しかし、もっと切実な緊迫したもう一つの立場がある。それは自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合の生死観である。腹の底から突き上げてくるような生命に対する執着や、心臓をまで凍らせてしまうかと思われる死の脅威におびやかされて、いてもたってもいられない状態におかれた場合の生死観である。

この第二の立場には、第一の立場には含まれなかったもう一つのはげしい要素を加えている。それは人間が健康で生命に対する自信に満ちて、平安に日々の生活を営んでいる場合には、まったく、思いもがけない要素である。この要素を加えると、人間の生死観は、何か質的にも別個のものになったかと思われるほど、第一の観念的な立場とは、異なってくる。

明日も、あさっても、そしていつまでも生きてゆくことができると考えている人の心は生命に満ち足りている。生命に対して飢餓は感じていない。それゆえ、そのような人は、観念的には、死の問題を考えても、生命飢餓状態におけるようなはげしい生命欲にさいなまされてはいないのである。

この直接的なはげしい死の脅威の攻勢に対して、抵抗するための力になるようなものがありはしないかということである。それに役立たないような考え方や観念の組み立ては、すべて、無用の長物である。」

彼が言いたいことは、つまり、「生に立脚した死生学は観念的でいざっちゅーときに全く役に立たん。生に立脚した死生学ではなく、死に立脚した死生学が必要なのだ。」そして、その先の論で、「死から生をみることで、はじめて“生”が浮かび上がってくるんだ。本気さが違うぜ!」と言っている。生命の飢餓状態にある私には、この考え方がとっても心に響いた。「今、私は生きていることが最大の事実。だから、今を一生懸命生ることに全力を尽くそう!」そう思えるようになった。期限付きの命になってみて初めて、自分の中に、こんなにも生への欲求があったことを知った私にとっては、うんちくばかりの宗教なんかより、ずっとずっと救いになった。経験した者にはわかる逆転の発想。

ところが、先生にこの考え方をぶつけてみたら、「幸いにも私たちは健康なんだから、死から生をみるなんてこと、しないでも良い」との答え。はああ?そうかぁ???ゴメンヨー、運が悪くて。イスからズリ落ちそうになった。逃げんなよー、と言いたかった。

癒しの庭の説明にもズリコケ。自分が某病院で造った庭をモデルに説明。「泣くためのベンチ」とか「癒しのゲート」とか、通販でも滅多にお目にかからない、わけわからん癒し施設がてんこもり。なんで泣くための施設がいるとですか?人は泣きたいときに泣くもんじゃなかとですか?告知を庭でする?CTやRIのデータはどこでみるのですか?どれもこれも頭でっかちな理想論ばかり。だいたいあのオエオエ生活で庭へ出られる時間なんてあるのだろうか?白血球下がっているのに。植物の匂いだって不安。水やり?ゲロやり?

「診察を何時間待っても、この庭があれば気にならない」とか「この庭があるから母を看取ろうと思った」そんな意見が多く寄せられています。と自慢話。そうか~?医療の本質ってもっと別のところにあるんじゃないか?何時間も待っている患者の心理を考えたことあるの?

「この病院には美容院もあるんですよ」、「へええーいいわねー」。あふぉかクソボケ!院内の美容院、なんのためにあるのか知っているの?開頭手術のために剃髪しなきゃならないんだよ?化学療法の脱毛に備えて剃髪するんだよ?長期入院して、みんな絶望的な気持ちで髪の毛を切りにいくんだよ?娑婆の美容院と一緒にすんな!あほ!

彼女が言っていることは、はかちゃんの転院で、医療の質、医師の質(人間性)、環境の質を天秤にかけたばかりの私には、非現実的な理想論としか思えなかった。そりゃきれいな庭があったら理想だろうけれど、それを上回るもの(医師の人間性とか)があれば、それを優先せざるを得ないだろう。医療の質にしても同じだ。不安定な癌患者のロココを支えてくれるのは、究極、そういう人の力だ。

しかもよくよく考えてみたら、テーマは「ターミナルケア」。おいおい、ターミナルの状況、わかってんのあんた?モルヒネで意識とばしてんだよ?疼痛で動けないんだよ?みんなギリギリのところで、ふんばって、生との真剣勝負をしているんだよ?だいたい、あの治療の状況の中で、植物になんか目がいかないよ!植物に癒されるのは、自分がそれを求める心になったとき。押し付けられても心は開かないんだよ。心が開いていないときは、花をみても物にしか見えないだよ。病院にも花はあったけど、キツイとき、私は何も感じなかった。それどころじゃなかったんだと思う。それが現実。

退院して、散歩がてら近くの六義園へ行ったとき。ツバキの枝に雀が飛んできてとまったのをみて「ああ、人の一生なんてこんなもんかもしれない」って思えた。心が求めなければ、何も響かない。癒しの押し付けはあかんのですよ。

でもそういう頭でっかちな話に、皆が納得していたことが、何より1番悲しかった。友人に「今日の授業、面白かったね」って言われた。「面白い?」何が面白いのか私にはわからなかった。ただただ悲しかった。

結局、患者と健常者の間にある温度差って埋まらないのかな?と痛感しちゃった1日でした。ま、気持ち切り替えて。なんてったって大きな大きな人生経験をしたんだから。しっかし、本当にあったまにくる話だった。

« 今日のキャンベル湖 | トップページ | 私の値段7195万円也 »

コメント

私も宗教に救いを求めてしまいましたね。
でも、「全知全能の神」というのが受け入れ難くて、にわかクリスチャンしてます。

それに桜の季節に入院してて外泊で家に帰ったときの若葉と残った桜の美しさをまぶしく、そして嬉しく眺めました。
生きてるんだぁって実感できましたねぇ。

それって第二の死生観に立たされた人にしか味わえないすばらしい感情だと思うんですよ。
第一の死生観しか持てない人達より
私達癌患者は素晴らしい人生を歩んでいるんじゃないですか?

本読んでみよっかなぁ

投稿: のほほん | 2006年2月 8日 (水) 09時23分

私は・・・とここに書こうと思ったんですけど、長くなりそうなんで、トラバする事にします。
ちょっと待っててね。

投稿: rider | 2006年2月 8日 (水) 09時42分

そういうことが実感としてわかるようになったのは、このたび病気をしたためだと自分でも思っています。
おかげで何か読んだりすると、いのちについてのやたらと観念的な文章が目について、バッキャローざけんじゃねえよ何きれい事言ってんだよこのクソヴォケが!と罵倒しながら読む癖が付いてしまいました。

食事の用意をしていたとき、買ってきたしじみを見て涙ひとつぶ。

予めお膳立てされた「庭」にこころが動かされるほど、私の神経も鈍磨しちゃいないってことだよ。

投稿: yann | 2006年2月 8日 (水) 14時14分

みなさんありがとう!
わたしも植物につくアブラムシさえ愛おしく感じてしまったときがありました。今や必殺マシーンになっていますが。

投稿: きゃんべる | 2006年2月 8日 (水) 17時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/134301/8555610

この記事へのトラックバック一覧です: 死生学・癒しの庭:

» 死ぬということ・生きるということ [子宮ガンの治療のはなし]
【冬でもプミラ絶好調】 そのうち書こうと思っていた「死」について、きゃんべるさ [続きを読む]

受信: 2006年2月 8日 (水) 19時24分

« 今日のキャンベル湖 | トップページ | 私の値段7195万円也 »