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2015年10月

2015年10月31日 (土)

癌治療学会終了だん

私にとっての三日間の癌治療学会が終了。帰京の途へ。
ちょうど池ちゃんに手伝ってもらった患者さんの連絡日記のセッション頃、肉体としての存在はなくなっていたんやなぁと思いを馳せながら。
そして、やっぱり、もう少し長く生きていて欲しかったと思う。私よりあとに同じ病気になったくせに、私より先に逝くなんて、ずるいよ。
京都の紅葉を愉しむ気になれなかったのも、何を見ても池ちゃんのことが思い出されるから。今はそんな気分。
MBCネットワークから、患者の声をと言われているけど、正直、そんな気にはなれない。まだまだ浮上には時間がかかるし、まずはリスボンでどっぷりつかってこようと思う。



通夜

池ちゃんのお通夜に行きました。納棺したときにも、寂しい気持ちでいっぱいになりましたが、通夜という儀式になるとなおさら。ああ、本当にいないんだ…と。
エンディング・ノートには、葬儀に際して、香典・花は一切断るとありました。また、葬儀費用は預金からと。
負担をかけさせたくないという彼女の思いやり。

ただ、音楽については指定されていました。お通夜の最初には、カルテットの仲間と先生による四重奏が流れました。
「四重奏は四人揃わないとできないのです。池ちゃんの席には私が彼女のバイオリンとともに座ります」と先生が話し、始まりました。
皆がそれぞれの思いに包まれました。

私は翌日は癌治療学会のセッションがあるので、告別式には出られません。ギリギリまで傍にいさせてもらいました。棺の中に横たわる息をしない綺麗な池ちゃんが、もっと、もっと綺麗になって眠っていました。

もう声をかけても、起きてはくれない。

2015年10月29日 (木)

がん治療学会

本来なら池ちゃんも参加をしていたであろい癌治療学会へ参加。彼女が患者さんのためにと尽力した薬の発表がたくさんありました。見せたかったなぁ、一緒に見たかったな~、そして、一緒に語り合いたかったな~。

開発者であっても、逆転できるような薬に着任中に出会うことはそうそうないと聞きます。難治な癌の治療薬も早く患者の手に届くよう、そして、創薬に参加したたくさんの患者の思いが実るよう、私も祈りをささげ、そして、行動したい。池ちゃんがその道を志したように。

2015年10月28日 (水)

どこまで何を言うか

池ちゃんは、病気のことをなかなか他の人に言いませんでした。ってか、私にも再発から一年、黙っていました。どんだけ辛かったか。どんだけ我慢したのか。その気持ちを思うと、心がはりさけそうになります。



私は豊島オケの人たちには、一度、会いに行ったほうがいいのではないか?特に、一緒に旅行に行った人には病状を伝えてみては?と何回か提案しました。



池ちゃんは「でも、今の私をみたら、きっと皆がびっくりするだろうから」と言って、かたくなに阻みました。「池ちゃんは池ちゃん。何も変わっていないのだよ?」と言っても、首を縦にふることはありませんでした。



職場の人に対しては、さらに言い出しにくかったようです。そんな折、私が登壇した毎日新聞メディカルカフェのミニ講演に足を運んでくれました。私は職場のグリーフについて話をし、「自分は死んでも、周囲の人には生がある。その生を健やかにするために、自分自身が参加するグリーフがあり、職場の人に気持ちや病状を伝えることもありでは?」という話を、私は池ちゃんに語り掛けるつもりで言いました。
数日後にメッセが届き、「思い切って、今日、職場へ休職の挨拶へ行ってきます。」と連絡がありました。私は「池ちゃんの今の気持ちを添えてね。きっと伝わるから。」と送りました。



夕方、池ちゃんから「職場に行ってきました。勇気だして、言ってきて、良かったです。ありがとう。」とメッセが届きました。折り返しすぐに電話をすると、「そのままでいいから・・・ってみんなが言ってくれた。嬉しかった。本当にありがたいと思った。」と号泣しながら話してくれました。



入院をしたときにも、Cさんとかに伝えないでいいの?うちの旦那には伝えてもいい?といったら、「ホルンのおじさんはいい」と。当初、本人は退院する気まんまんだったし、Cさんのような医療関係者は学会が重なるいまの時期が一番忙しいことを十分、身をもって承知していたからの気遣いだと思いました。亡くなる二日前にも電話会議があり、会議の30分前にオプソ10mgを投入、息を整えていました。痛々しかった。



なぜ自分のところに連絡がないのだ?と思う人がいるかもしれません。でも、それは、池ちゃんがあなたのことが大好きだからです。大好きで、大好きで仕方がないから。そして、心配をさせたくないから、言わなかったのです。きっと、「池ちゃん」であって、「がん患者の池ちゃん」というように思われたくなかったのかなと思います。ふつう通り、今まで通りの池ちゃんでいたかったのかな。



誰にどこまでどういうかは、本当に難しい課題で、正解はありません。でも、そこには「思い」があるのです。









旅立ち

その日は出張でしたが、朝、なんとなく心配になり、メッセをいれました。すると、「ちょっと状況が悪いかも…」という知らせを妹さんからもらいました。前夜のこともあったので、後悔するなら会いに行け!と思い、旦那に「行くよ!」と声をかけ、あわてて二人で家を飛び出しました。私は、仕事先の方に電話をして、約束の時間より到着が遅れることを伝えました。病院には、9時に到着。新幹線の出発時間ギリギリまで病室にとどまり、顔をみて、目から零れ落ちる涙をふきました。



そのときは既に意識はほとんどなく、天国にいるお母さんと行く行かないの押し問答をしている感じでした。耳元で、「池ちゃん!」とよぶと、「はい」と返事は返ってきます。「なおみだよ、これから仕事にいくからね!」「はい」。



「夜、戻ってくるから、待っていてね!」



これには池ちゃんからの返事がありませんでした。その後、Y先生ご夫妻がいらっしゃり、池ちゃん額の汗をふきながら、3人で一緒に祈りを捧げました。安らかに。ただ、安らかにと。



それが私が生前の池ちゃんに会えた最後のときでした。前の晩、私に付き添いをさせてくださったご家族の優しさに、いま、本当に感謝をしています。



たくさんの宿題を彼女からもらいました。きつくても、壁にぶちあたっても、みんなの力をかりて。「治る薬を作ってよ」といった私のリクエストに彼女が応えてくれたように、私も恥ずかしくないように生きます。



Palver10




ありがとうございました。わたし、気がつかなかったけど、池ちゃんのこと、本当に愛していたみたい。

納得

酸素パニックの一件があってから迎えた金曜日の朝、トイレに行きたいというので、いつもの定位置にポータブルを運びました。もうこの頃には池ちゃんから排泄係を許可されており、「すんだ感じ?」と声をかけると「うん」と返事がありました。私は、着替えに必要な準備をしてナースコールを押し、ふと視線を落とすと、目の前に真っ赤な血が見えました。



え?



やがて、ナースがきて着替えをしましたが、ナースもそのことに気が付きました。あれ?と。そして、担当医が確認をしました。下血でした。明らかに便の外ではなく、中に血が混じっていました。
私はそれをみた瞬間、あああ、もう身体の中はこんなに悲鳴をあげていたんだ…と思いました。その後、担当医から大腸の下部で内出血をしている可能性が高いこと、出血によりヘモグロビンが減少すると酸素がさらに辛くなる、それは致命的にもなることから、止血剤を加えることを提案されました。そして、内服(一日3回2錠)か点滴(一日30分)か、どちらがいいか確認されました。すると、池ちゃんは内服を選択しました。「え?」と私は思いました。せっかく、24時間の点滴モルヒネに変えて、内服の煩わしさが減った矢先だったのにと。
でも、30年前、大学時代にプラチナ製剤を使ったことがある池ちゃんは点滴が嫌だったのかもしれません。ろくな制吐剤もなかった時代のプラチナ製剤…考えただけで気が遠くなります。





このとき、がんばっていた池ちゃんの肩の力がちょっと抜けた気がしました。



私は午前中に仕事があったので、雑談の後ハグをしてからそのまま出かけ、昼過ぎに病室に戻りました。池ちゃんの様子は、ちょっと飛ばしすぎではないか?というほどハイになっていました。モルヒネやステロイドの影響もあったかもしれませんが、いつもとは違うハイテンションぶりが心配でした。
担当医にもそのことが心配だと伝えましたが、「酸素が足りない状況が手伝っているかも」とのことでした。



そしてサプライズ。私のFBをみていた友人がお見舞いにきてくれました。それもバルーンと皿回しをもって。突然の訪問にびっくりしていましたが、皿回しをし、、、バルーンをもらって大喜びをしていました。そこへ、お世話になっていたY先生が登場(前の夜も朝も寄ってくれた)、「何、何やっているの?!!」と満面の笑みで、池ちゃんから皿回しを譲り受け、回していました。15分程度の短い時間でしたが、皆んなの気がほぐれた最高の時間でした。



そして、17時ころにサプライズ二回目。今度は、音楽隊です。
実は前の晩、9時過ぎにY先生がきて、三人でいろんな話しをしました。そして12月のパーティーで披露する音楽を「内緒ね」と聞かせてくれました。その曲を届けるために、病室へ電子ピアノを運びこみ、みんなで歌ってくれました。その後、チャプレンさん達とともに、皆でお祈りをしました。朝の憂鬱は消えていました。本当に最後の力を振り絞っていたのだと思います。



夕方に担当医のカンファレンスがあり、これまでのいろいろな話をしました。なぜY先生と接点があるのかという話になり、積極的な治療をあきらめたときの決断や迷い、そこまでの道のりについて振り返りをしました。



「ご家族もしらなかったでしょう?」と。

こういう共有がとても大切だと思いました。当事者が参加できるgriefだと思いました。池ちゃんも縁が縁を結び、偶然が偶然をひきよせ、今ここにあることを話してくれました。そして、その日の夜は妹さんが泊りました。



今となっては、家族全員がそろったあの数時間が、本当に大切な時間だったと思います。

出会いのイベント

入院していても、酸素だけは、どうしても85程度からあがらず、だんだんと本人も不安になっていました。そして、水曜日に主治医からカンファレンスがあり、レントゲンをみながら今の病状の説明がありました。



まず、池ちゃんに、「どこまで知りたいですか?病状だけか?時間なのか?」などが確認されました(とてもやさしく、でもしっかりとした声で)。池ちゃんは「私は強い人間ではないので、病状は知りたいけれど、これからどんなことが起きるかとか、どのぐらい時間がのこされているのか、そういった話は聞きたくない」と答えました。
主治医からは「わかりました。でも、家族には知っておいて欲しいこともあるから、ご家族には分かりやすく現状を伝えさせてください。いいですか?」「はい」。



そして、肺のレントゲンの写真をみながら、病状が悪化していること。悪化のスピードが速いこと。退院は難しいかもしれないことなどが告げられました。
私からはステロイドが効いていないということ、胸水を抜くことはできないのかの2点を質問しました。いずれも難しいとのことでした。



「もし、本当にそのときがきたら、どうしたいですか?意識のレベルを落とすことを優先しますか?それとも、多少困難はあっても、家族と一緒にいるという意識を残しますか?」
セデーションです。とても大切なこと。以前にも3人ほど肺メタの患者さんの看取りをしたことがある私は、その最後の辛さを知っています。それを、池ちゃんにはさせたくありませんでした。
「ただし、これは、本当にそうなるかわかりません。静かに意識を失われるケースもあるし、様々です。また、@@さんが希望されても、それが適切かどうかは、私たちも考えます。ただ、@@さんがどうされたいかという希望を聞いています」



池ちゃんはずっと考えたあと、
「再発したかもしれないと知らされたとき、内臓系か、呼吸器系かと思いました。呼吸器系は嫌だなと思っていたら、呼吸器でした。息ができないで苦しい思いをするのは嫌です。」「それは意識のレベルを下げることを優先するということですか?」
「はい、意識レベルは下げてもらってかまいません。苦しみは取り除いてください。」
そういいました。私は涙がとまりませんでした。なんでこんなにシンドイ決断ばかりをしなくちゃならんのかね、がんって病気は!そして、池ちゃんはしっかり考えていました。



その後、家族は別室に呼ばれました。私はついていくかどうしようか悩みました。このまま池ちゃんに寄り添っていた方がいいのではないか?と思いました。振り返って池ちゃんの顔をみたら、「行っていいよ。一緒に聞いてきて。」という顔をしていました。
主治医からは、「週末もてば・・・」の状態であることが告げられました。その日が近いことは覚悟をしていましたが、正直、私も驚きました。悔しかった。家族の前で私が泣いたら家族が泣けなくなると思って我慢したけど無理だった。「悔しいです。」とだけ言いました。



その日の夜は、私が病室に泊ることになりました。夜の仕事を終えてからだったので遅い時間になりましたが、毎朝恒例にしていたパンツみせイベント(この日はくまもんパンツ)をしたり、シャワーを浴びた後、下着姿で「着替え、着替え」と病室内をわざとうろついて茶化したり、普段通りを装いました。池ちゃんは、(呆れた顔で)いつもの笑顔でいました。



そして、長い夜が始まりました。





胸水の関係で、右側を下にしないと眠れないので、ずっと顔は私のほうを向いていました。少しおしゃべりをしていましたが、睡眠薬が効いてきたのか、やがて眠りに入りました。全身をつかい、肩で大きく呼吸する姿は、決して、寝心地が良さそうではありませんでした。
朝のメールで、「よく眠れた?」と聞くと、「うーーーーーん。どうかな?」と言っていた理由がわかりました。眉間にはしわがはいっていました。



マスクが邪魔なのか、無意識のうちに手で外そうとします。15分に一回ぐらいはマスクを確認しないと、ずれていたりする。それから、マスクの中や全身に寝汗をかくので、ときどき外してタオルでふきました。マスクが嫌なことは私も手術で経験済み。私もよく外してばかりいて、そのたびに看護師さんに直されていたことを思い出します。



思えば、池ちゃんはアジュバントの最中からの再発。だから、ずっと休薬期間がなかったものね・・・。全身、皮膚のあちこちに赤い湿疹ができていて、引っ掻き傷がたくさんありました。落ち着いて寝ていることはなく、常に腕で身体をかいたり、マスクをにぎったりの繰り返しでした。
「右の祖頚部にもなにかあるな」と日記にも書いてありましたが、頚部のあたりにも、あいつがいるのがわかりました。悔しかった。えぐりだしたかった。






ちょうど3時半ぐらい。私が一瞬寝落ちをしていたら、隣で動く気配がする。ん?いかん!っと飛び起きてみるとマスクが外れている!!えええ、あわてて、ナースコールを押して、マスクを探してつけてほっとしようとしたら、なんと、チューブが抜けている!
えええええ、落ち着け自分!「待っててね、池ちゃん、すぐに酸素いくから!!」と声をかけながら、まずは電気をつけて、チューブを手繰り寄せ、穴を確認してマスクに装着をしました。



OK!



前夜にあったチューブ抜き事件ってこれだったのだと思いました。その時点で看護師さんが登場。あああ、池ちゃんが言っていたのはこの時間差なんだなとわかりました。隣にいたのに気づくのが遅くて、ごめんよ。





その際、看護師さんからは、レスキューを使いますか?と何度か聞かれました。でも、池ちゃんは首を横に振りました。全身が大きくガタガタと震えていました。池ちゃんのそんな姿をはじめてみました。足の先から腕、背中、ガタガタと震えていました。
「大丈夫だよ池ちゃん、ひとりじゃないからね、私が横にいるよ。」そう何度も耳元で囁いて、崩れ落ちそうになる身体を支えました。



30分ぐらいしたら落ち着いてきたので、寝る?と聞いたら、くびを縦にふりました。そして、また寝ました。少し寝た後、空が明るくなってきました。「朝だ!」自分が手術をした日も、とにかく夜が早くあけてほしいと願いましたが、このときも同じ気持ちでした。



池ちゃんの目が覚めたので、おはようの挨拶をしました。池ちゃんは、私の手をとり、「何か夜中にあった?」と聞きました。私は、夜の一件を話しました。すると、以前も自宅で同じようなことがおきたときに、手をのばしても何もつかめず、声をだしてもどうにもならず、とても怖い思いをしたのがトラウマになっている。



「本当に怖かったの!」



こんなに激しい池ちゃんは初めてでした。「だから、なおみさんが大丈夫と言ってくれても、大丈夫って思えなかったの。怖いの。ごめんね、なおみさんだから言うの。怖いの。わたし、全然、大丈夫じゃないの。怖いの。」そう手を握りしめて何度もいいました。「ごめんね。本当にごめんね。逆に不安にさせちゃったよね。ごめんね。」そうお互いが謝りながら、抱きしめ合いました。



背中の癒着の痕が痛いのではないかと私が離れようとしても、池ちゃんは強い力で抱きしめてきました。だから、池ちゃんの気がすむまでそうしていました。10分ほどそうしてから、離れたら、「ありがとう」と顔をみあわせて言いました。お互い、泣き笑いの顔でした。









病棟での日々

病棟へ入った時、私たちは、酸素が確実に届いていないのでは?だから苦しいのでは?という判断でした。実際、別の器具に交換すると最大で85しかなかったspo2が92ぐらいまでいきなり上がったのをみて、ほらやっぱり!身体じゃなくて機械が悪いんだよ!そんな希望を持ちました。

入院初日の昼は、家族で食事にでかけました。帰ってきて回診。入院の手続きなど、やることがたくさん。あっという間に一日が過ぎました。「池ちゃん、パソコンもってきて、横で仕事をしてもいい?」そう聞くと「うん、いいよ」。
そしてその日から、私はパソコンを病室に持ちこみ、打ち合わせは病院内カフェという生活がスタートしました。こういうとき、個室は本当に助かりました。

初日の夕方には、足りない用品、下着類や気分転換をするために、車いすを借りて地下の売店へ行きました。買ったものは全部、池ちゃんの膝の上に置き、「おかーさん、おまけ買ってもいいですか?」とふざけて言ったら「えええ~!」と言われました。おだやかな時間でした。

翌、火曜日の朝、病院へ到着すると手書きのメモを渡されました。「ごめんね、買ってきてくれるかな?」、「うん、いいよ、車いす、もってこようか?」と言うと「ごめん、今すぐに必要なの」、その意味がわかったので「OK!じゃあ、いってくるね!」と売店へ速攻しました。
午後は屋上庭園へ車いすをおして出かけました。久しぶりの外の空気は気持ちよく、池ちゃんの表情も晴れやかでした。「入院して良かったね、やっぱり、大変だったと思ったよ、自宅での生活は」、「うん、私もそう思う」。そんな言葉が互いから出ていました。

水曜日、病室で仕事をしていると、池ちゃんが「なおみさんが、私のことで会社に行けないこと、会社の人たちは心配をしていないかな・・・?」と。思いもよらない言葉でした。「会社の皆には病室を事務所にすること、伝えてあるから大丈夫だよ。みんな、池ちゃんとの時間をたくさんもってくれと言ってくれているよ。だから、心配しないでいいんだよ。」と言いました。
それから、夜中のトイレ事件について話をしてくれました。「夜中にトイレに入ったら、立ち上がれなくなってしまって。。。一時間ぐらい看護師さんを手間取らせることになって、なんか、半分切れていた・・・」と苦笑しながら話してくれました。「え?何があったの?」「家へ帰るために入院しているのに、こんなことじゃ家に帰れなくなっちゃいますよと言われての。で、しみじみ、『あああ、そうだよな~。言う通りだなよな~』って思った」。

私は「池ちゃんがこの入院で達成したい目標は何?」と聞くと「動けるようになること」と即答。「そうだよね。でも、どのぐらいが池ちゃんにとっての動けること?」と聞くと「ずっと思案。トイレかな~」「だよね。そうすると、往復で10mは歩けるようになりたいね。」「うんそうだね」「50m歩けたら、玄関までいけるようになるね」「そうだね!!」

戻ってきてからはお昼寝。オピオイドが効いている間、少し眠気がでるので、うとうとと寝ていましたが、そのときも呼吸が苦しそうでした。苦しそうな声と一緒に呼吸をする姿に涙がでました。

「お母さんが同じ薬を飲んでいたとき、すぐ寝ちゃうので怒ったことがあるのだけど、そのときの母の気持ちがいまとってもよくわかる。悪いことをしたなーと思っている。」と言って、「お母さん、何で亡くなったの?」と・・・お互いの母親病気&看病話をしました。

ゆたかな、おだやかな時間がこのまま流れると思っていました。

退院を目指して

19日は外来でした。朝9時に家をでるつもりで自宅へ向かいました。行く途中でメッセをいれると「まだ起きれていない」との返事。心配になって部屋へいくと、ベッドにこしかけたまま動けなくなっていました。弟さんがずっとそばに寄り添っていました。この日は本当に体調が悪そうで、時間をかけながら、ゆっくり、ゆっくり、準備をしていきました。



「私的には、このまま入院してもいいかと思っている」



そうポツリとつぶやきました。確かに、今の状態では、部屋からでることもできない。お父さんのことをずっと心配していたけど、弟もいる、妹もいるい。家族がちゃんといる。お父さんも大丈夫。そんな安心感も芽生えていたのかもしれません。
なんとかトイレに立ちあがりましたが、5m先のトイレに行くのもやっとでした。でも、「手を洗いたい」、これは池ちゃんの大切にしたいことのひとつでした。入院してからも、トイレのあとは必ず手洗い。



弟さんが、「イスに座って、イスごと運ぼうか?」と提案をし、私も、その方が楽だよ!と一票を投じましたが池ちゃんは動かず。「あ、うるさいって顔がいっている」と弟さん。「ほんとだ。いいから早く洗面台、あけろよって言ってる」 なんとくこの頃は、私も池ちゃんの顔から言っていることがわかるようになってきました。妹さんや弟さんとのやりとりをみて、こういうところ、やっぱりお姉さんなんだな~と思いました。



なんとか玄関まで歩いてきたところで、診察時間は1時間遅れ。弟さんが病院には連絡をいれておいてくださったので心配は要らないよと伝えましたが、運よく担当医師から電話が入りました。担当医は、いまの状態を聞いてくれ、そして、入院を提案してくれました。あの電話をとったときの池田の安心した表情は今でも忘れられません。そして、「入院用品」と書かれたバッグを弟さんが持ってきました。



その後、すぐに入院係の方からもってくる荷物の電話や病棟についてからの行動が電話で知らされました。こういう連携のよさが、この病院の最大の特徴だと思いました。そして、私たちは車にのって、入院となりました。あくまでも、体調を整えるだけのつもりでした。




spO2

10月14日の夜、一緒に近くで外食をしようと約束をしていました。ただし、無理は禁物でと。

早めに着いたので、電動ベッドの発表会が行われ、ベッドの上でふたりでごろごろとしていました。じゃあ、そろそろ出掛けようかとしたとき、異変がおきました。ベッドから立ちあがれないのです。全く動けない。それでもなんとか玄関まで来ましたが、ここで、急にトイレに駆け込みました。オピオイドは痛みもとりますが、腸の運動も弱くしてしまいます。私もお世話になったサンカマとプルセニド、ラキソベランが必須でした。特にラキちゃんは、量によっては、本当に我慢できないことがあります。

このタイミングと出かける時間が運悪く、重なってしまいました。

私は、酸素を鼻腔からマスクタイプに取り換え、あわてて部屋へダッシュして機械のスイッチをON。玄関脇のトイレの前で様子を待ちました。が、かなり苦しそう。この時点で外で食べることは諦めました。そして池ちゃんもトイレから出てきて「やっぱり、今日は無理かもしれない…」と哀しそうな顔で言いました。ごめん、私も無理させちゃった。そうして、部屋まで戻り、着替えを手伝おうとしたのですが、中からは「来ないで!」という声がしました。「うん、いかないよ。池ちゃんのほうから何かあったらよんでね」。

人間の尊厳というものを考えたとき、排泄物のことは大変重要だと私は思っています。彼女がその一線を私に許してくれたのは、亡くなる三日前です。ここまでは、絶対に許しませんでした。私も彼女の気持ちを優先しました。

支援する側はふとすると「仕方がないのだから~してあげるよ」という気持ちになりがち。これ、相手の自尊心をとても傷つけます。私は、池ちゃんが助けてという部分だけ手伝いましたが、「なおみさんって、まめ!!」とよく言われました。私からみたら、池ちゃんのほうがマメよ。

トイレ問題については、ちょっと前にトイレを借りた際、すこしだけトイレ掃除をして出たことがあったのですが、耳がよい池ちゃんは「ひょっとしてトイレ、磨いてくれちゃった?」と聞いてくる。「うん、ついでだから。すきんなんよ、洗濯と磨くのは」。といったら一応納得してくれてはいましたが、やっぱり嫌なんだよね、そういうの。ごめん。

緩和ケア外来

10月11日の夜は、なぜか夕飯を池ちゃん一家にまじってとることになりました。お父さま、妹さん、妹さんの旦那さん、池田、私です。賑やかな食事でした。私もとっても楽しく、心があたたかくなりました。

その一方、二階へあがる池田の姿が、本当に一歩、一歩の状態になっていて、ほふく前進。なんでこういうところも介護保険で考えてくれないのだろう?とか、在宅、在宅といっても、家の構造自体がバリアになることもあるし、なんとかならないのだろうか?と思いました。納税者だから権利あるしね。

外来への付き添いはしていましたが、診察室の中まで同行したのは、10月12日でした。「え?祝日だよね?外来、やっているの?」と聞いたら「年に4回ある、ハッピーマンデーは外来をしているんだって」とのこと。大変だなと思いながらも「でも、こういう祝日の診察をしてくれると、今日みたいに家族が付き添いできるね!」と言ったら「そうなの!そんなこともあって、H先生でよかったかなと思っているの」と。

外来は、治療を主としたものとは全く異なるものでした。そして、時間をたっぷりかけながら心、身体、そのほかの困りごとを聞いてくれました。特に驚いたのは、素通りしちゃういそうな小さな言葉。これを全部ひろっていったこととと、患者がつむぎだす言葉を「待つ」こと。これは、ふつーの外来ではありえない。ふつーの外来では、以下に短い時間の中でコミュニケーションを交わすかに終始するから。そのアプローチの仕方の違いに驚きました。

それから思ったこと。

緩和ケア外来を受診される方は、是非、一冊でいいから疼痛管理の本を読むべし。私は、緩和ケアのガイドラインと日常診療の疑問、10個のヒント!という3冊を読んでいたため、マブだのニブだのの世界から頭を切り替えて、なんとかついていくことができました。池ちゃんにも、在宅緩和薬学会でピックアップしてきた簡易なオピオイドコントロールの小冊子を二冊渡しました。

緩和ケアは、処方の考え方が全く違う世界なので、知っておくと先生が出している薬の意味がよくわかってきます。また、その用量や形態のちがいによるメリットデメリットなどもわかってくるので、納得感がでてきます。これはとても大切だと思いました。

家族に対しては、今の病状が報告されました。息切れの原因、脱毛の原因などです。そして、「では、次の外来は、さ来週・・・?」、、、「いえ、来週にしてください」と。これがのちのち良かったのだと思いました。

介護保険

9月は出張に次ぐ出張で、なかなか顔をみることができなくなっていたので、家での様子がわかるように池ちゃんには日記をつけてもらっていました。



日記はいろいろなところが見えてきます。たとえば、「A&Jと食事!Cとふたりでシェア。おいしかった!」と書いてあれば、ああ、ひとりじゃない。大丈夫と安心することができます。しかも、その翌日の日記には「ハラミ肉のパワー?午前中も動ける!」と書いてありました。



これを読んだ私が「ハラミ肉って何?」となり、「なおみさんもハラミ肉、しらないんだ。cは知っていたよ」と。そして、では、ハラミ肉を食べに行こう!となり、9月29日は目白までハラミ肉を食べに行きました。



9月の頭のノートには「ベッドから自分の身体を起こすのがつらい」とありました。すぐにメッセージをいれて「介護保険で電動ベッドをいれてもらおう」と伝えました。介護保険については、積極的な治療を中止したときから申請をしていたのですが、なかなかおりません。自治体の差はありますが、文京区の対応はかなりひどかったです。その待ちに待った電動ベッドが10月2日に入りました。そのための片付けを妹さんと弟さんが手伝ってくれたことを、とても喜んでいました。「理由はどうであれ、こんなことでもないと、家族がそろう時間はなかなかもてないよね。良い時間だね。そして、いいお父さんとお母さんだったのだね」というと、満面の笑みで「そうかな~」と言っていました。



長女・陽子の姿をみたのはこれが初めてでした。(笑



その後、私は10月4日に開かれる、弘前のアップルマラソンへ参加するために青森へ飛び、完走後の写真を送り、リンゴを届けました。このリンゴがいたく好評で、美味しい、美味しいといいながら、自分でむいて出してくれました。この頃は、時間はかかっても、自分でできることをしていました。






一番うれしかったのは、食事をつくってくれていたときのこと。その日は仕事のあと、寄ろうと思っていましたが、少し遅い時間(18:15)。迷惑かなと思いつつも、少しでも顔を見たいと思い、「遅くなりそうだけど、寄ってもいい?何か買っていこうか?」とメッセを送りました。すると「あたたかいものにしようか?」と。そして、炒め物をする写真が届きました。「クリームシチューとかどうですか?」と。





世の中の夫という人が、家でご飯を楽しみにして帰る気持ちがよくわかりました。






一秒でも早く家に着こうと、走ったのを覚えています。手料理はとてもおいしく、心が温かくなりました。この後も、なるべく一日に一食は一緒に食べようと思いました。私も、一人で食べることが多かったので、嬉しかったです。



質問

私と旦那が結婚するときに、彼女は一手にとりまとめを引き受けてくれたのですが、そのときにお付き合いをされていた男性とその後、結婚をしました。大学時代に卵巣がん(1c)を経験していた彼女は「人生の一番つらいときによりそってくれてくれたことに感謝をしている」と言っていました。ところが、その後、いろいろなトラブルがあって離婚をしていました。

実は、私も同じようなことが原因でつきあっていた男と別れたことがあります。その男は、別れて数年たったあと、突然の心筋梗塞で亡くなってしまったのです。だからおせっかいばばーとしては気になる。

私はまずメッセージで「池ちゃん、今日、お話をする時間はありますか?」と聞くと、妹さんが夕方帰るからそれ以降なら大丈夫!との返事をもらい、思い切って私の気持ちを伝えました。

私は、自分のときの話をし、気持ちとして「訃報を聞いた時、頭にきた。一度でいいから会って、バカヤロー!と言ってやりたかった」と言いました。そして、「池ちゃん、私が後悔するかもいれないから、聞かせてね。答えなくなかったら答えなくていいから。」「うん」

「彼と会いたい?」

ちょっとの沈黙が流れたあと、「いい。それは。会いたくない。」私は池ちゃんを泣かせてしまいました。「ごめんね、ごめんね。もう二度と聞かないから。私がそんな経験をしていたのと、自分がそれをひきずりかけたことがあったから聞いてみたけど、ごめんね。もう聞かないから。」というと、「ううん、ありがとう。聞いてくれてありがとう。まだ彼の病気は治っていないということを人伝てに聞くし、いま、私が会ったとしても、私は何もできないから。」

この時点で私は暴発。

「ええええええええ? ‘何もできないから’って、まだなんかしてあげるつもりなの???あんたは、菩薩か?私なんか、一発殴らせろぐらいの怒りの気持ちはないかを確認したくて聞いたのにーーー!」あまりの性格の違いでした。どこまでも、どこまでも、人に尽くす子なんだ・・・そう思って、笑いながらふたりで大泣きをしました。

ごめんな、池ちゃん。

選択

10時に約束した病室へはいると、先生はまったく動けない状態で横になられていました。驚いて、「大丈夫ですか!?」と声がでましたが、優しい目で、「大丈夫だよ」と迎えてくださいました。「お話を聞きますよ」と切り出され、池ちゃんから今までの治療歴が語られました。私も全部聞くのは初めてでした。

ふたりの先生はイスに腰掛け、目をみつめてくれながら、一所懸命「うん、うん」と聞いてくれました。この時点で私の涙腺は崩壊。池田も涙を流しながら、一生懸命話をしました。自分の想い、迷いも含めて。「製薬関係の人間がこんなんでいいのかな?と思って」という言葉には、速攻で全員が「そんなことは関係がない」とダメだしをしました。

かれこれ1時間近く、相談を聞いてくれました。いま一番しんどい咳、呼吸の状態をなんとかしようと。それは治療かもしれないし、体力的に無理なら、まずは緩和ケアで体力を整えてからでもいいこと。患者にとって、治療を止めるということは、「見放された」という思いがする厳しい決断でもありますが、そこについても、「池ちゃんの体力と症状にあわせて、希望をききながらやっていきましょう。」と力強くいってくれました。

「治療にはいつか限界がきてしまうことはわかっているよね。そのバランスが難しい状態で不安もあるだろうけど、うちは緩和ケア外来と病棟、そして治療を備えているから、その時点で考えて行けばいいから」そういってくださいました。

池田ちゃんも私もこの時点で涙腺崩壊状態。そして池ちゃんから「ありがとうございます。考えます。本当にありがとうございます。」なにか、迷いがとれたというかすっきりした表情になっていました。そして、部屋をでるときには全員で祈りをささげ、ハグをしました。

こんな話もしてくれました。「いま、池ちゃんは、持っていたたくさんの風船がひとつ、ひとつ、手からすり抜けている感覚がするかも。でも、一番最後に必ず、必ず、大きなキラキラした風船が目の前に降りてくるはず。それを皆んなで掴みに行きましょうと。

あとから聞くと、Y先生はちょうどこの日の朝、入院されたそうで、池田だけの時間をつくってくれました。この日、もし入院していなければ、もし、会えていなかったら、池ちゃんのあの笑顔は完全に消えてしまっていたかもしれません。本当に運命と感謝、神様のお導きというものがあるのかと思いました。

そして、午後から中央での診察へ向かいました。積極的な治療をやめるという決断でした。

15日の9:30-緩和ケア外来で主担当の先生との診察。その後、主担当との診察を重ねました。私は付き添いはしましたが、診察は池ちゃんの時間だからと譲りました。ちょうどその頃、私自身の心も辛くなってきました。私は長野にある山の家に逃げ込みました。私自身、冷静さを失いかけている気がしたからです。

離れてみれば、私の気持ちにも変化があるかな?と思いましたが、それは全然ちがって、逆に、様子がわからないことが、心配で、心配で。
気持ちを集中させるために、毎朝、鬼押し出しまで標高500mをランで往復しました。アホですね。まるで修行僧状態。爺とふたりっきりだったので、毎日、毎食、池ちゃんへメッセージをおくり、今日、あったこと。山の自然や生き物の写真をおくりました。

彼女の家の山の家は駒ケ根にあり、たくさんの思い出がつまっていたはず。「遠くて行けない」と言っていたので、まあ、同じ長野でしょ!!と紅葉の写真などをおくりました。

走ってる間は涙ばかりが出ました。街中ランだったら、変に思われるかもしれないけれど、シーズンオフの北軽井沢。だれーもいません。なので、声をだして泣きながら走りました。そして、私の心にひとつだけひっかかっていたことを、打ち明けることにしました。

偶然が重なる

外来、一緒に付き添おうか?しんどい話をひとりで聞くの、更にしんどくない?と聞いたら、「外来は大丈夫。ただ、一緒にご飯を食べてくれる人を絶賛大募集中!」と言う返事。それならと思い、一日1食は一緒に食べようと、昼やら夜やら、「奥さん、今夜のおかずは?」攻撃を開始しました。

このときも、かなり咳がひどくなってきていて、リンコデ増量大作戦も決行していました。ちょうど私も夏風邪をこじらせてしまい、「咳はつらいねー、一回で4kcalぐらい消費するそうだから、エネルギーを入れないとだめだねー」と言いあっていました。

スケジュールを振り返ると、8月17、18、19、24、26日とお見舞いに行っているようです。少しでも栄養があるものをと、銀笹へラーメンと食べに行ったり、鰻屋さんへいったり、雨の日は最上階のレストランで刺身定食を食べたりと、、、
「何が食べたい?」と聞くと「なおみさんが食べたいもの」と、私にあわせてくれていたのかもしれません。でも、ほぼ完食をしていたので、良かったなーと思っています。

26日は中医協の傍聴をしたのですが、彼女が携わっていた薬品の薬価がきまるときだったので、こんな風に評価されているよーと資料を一緒にみたり。すると、本当に私のしらない細かいことまで丁寧に解説をしてくれて、あああ、やっぱり池ちゃん、仕事、好きなんだねと思った。





そのあとも出張などがない限りは自宅へ、犬の散歩と称して、遊びにいったり、群林堂の豆大福を一緒に食べたりとなんだか私の栄養状況のほうが改善されてしまうような気がします。

レジメンGの治療は一回だけ行いましたが、そのときの説明同意書がすごくて。。。「ごくまれに治療関連死がある」という文章が「ごくまれに」となっていました。そして、欄外にも、「治療関連死リスクが高い、@日に奏功していなければ中止」と書いてありました。
こんな同意書があるのだ!とびっくりすると同時に、彼女のなんとか手をうちたいという思い。そして、その希望に自分の責任をかけて応えてくれた主治医の覚悟に、私もただただ効くことを祈るしかありませんでした。

ある日、「池ちゃんは、最終的にはどこで自分の人生を終わらせたいと思っている?」と聞きました。「病院かなと思っている。」彼女自身がやがてくる「死」をどのようにとらえているのかを確認しておきたかった勇気の質問でした。「そうか、私もたぶん病院だな。爺(犬)がいる間はギリギリまで家に帰りたいと思うけど、やっぱり、ご飯のこととか、動けなくなったときに気を使わせるのは嫌だから」というと「うん、そうだね。」「自分が居づらさを感じてしまう気がしてね」と私が言うと「そうなのよー」と。

そして私たちは、次の一手をどうするのか?ということを一緒に考えるため、ある医師と連絡をとりました。「友人のセカンドを聞いてほしい」と。すると、即答で連絡があり、「いま、ちょうど夏休みだから、個人的にあうことは構わない。ただ、自分の病院だと休みにならなくなってしまうから、どこか外で会いましょう」と有難いお返事を頂きました。




これが9月8日。ちょうど午後から中央で診察があった日でした。中央のレストランで会うことにして、池ちゃんに話を伝えました。このまま治療を続行するのか、止めるのか。とても難しい選択です。ところが、朝、急にメッセージが入り。「S病院までこられる?」と。「夫に状況を話したら、僕が相談にのったほうがいいと。」 

涙がでました。そのまま速攻で池ちゃんに電話をし、「どうするか?」と聞くと、「ありがたい。行きます」と即答。一緒にタクシーに乗りました。行き先だけ変わりました。

タクシーの中で、病院のどこへ行ったらいいのかを尋ねたら、病室に・・・との返事。驚いて、何かあったのかと聞くと、ある病気で歩けない状態だけど、病室に来てくれれば大丈夫とのこと。「迷惑じゃないかな・・・」という池田を「いくべ!」とひっぱりました。

この出会いがその後を決める運命になりました。

ハグ

一度だけ、緩和ケア外来のあと、池ちゃんから「会いたい人がいるんだけど、寄って行ってもいい?」と聞かれたことがあります。「うん、いいよ。行こう。」



だれかな?と思ったら、中央で放射線治療を受けていたときの反対側のベッドにいた患者さんでした。池ちゃんは、「すごく苦労されていて、すごく良い方で、明後日、転院だと聞いたので、会いたい。」とのこと。



病院による雰囲気の差はありますが、中央の病室で驚いたのは、カーテンを閉めっぱなしの方が多く、入院患者同士の交流が少ないなという印象でした。
「そういえば、隣は開いていたなぁと。」
病室を覗くとその方がいらっしゃる。が、池ちゃんはタクシーから病室にくるまで、今までになく速く歩いたので肝心なときに息切れ。皆で笑いながら挨拶をしました。






いま思えば、池ちゃんのがん友って彼女ぐらいだったのではないでしょうか?
手を握り合って涙をこぼすだけでいるから、私が、「がん患者同士の挨拶の仕方、池ちゃんは知らんのか?」といい、「こうやるだ!!」と彼女とハグをしました。



「言葉なんかなくたって、ハグすれば通じるべ!」



そして池ちゃんもハグをしました。あの患者さんは、次の病院へいってどうなったのかな・・・今でも思います。

希望が少なくなる中で

レジメンGが奏功し、彼女の呼吸はだいぶ楽になりました。そして、このまま、耐性ができるまで続けるのだろうと思ったところ、いきなり主治医から「私の手を離れてしまった。残念」という話を聞いておどろきました。

そう、治験に参加をしたのです。

あの状態で治験に?しかも、効いていた薬を途中でやめてまで??えええ、しかもP1?

これには私も合点がいきませんでした。私は池ちゃんにやんわりと聞きました。すると、自分が臨床研究に携わっていた薬を使ってみたかったのだと。

えええ?そんな理由?えええ?

この治験については病院のTOPページにも大々的に掲げられていました。癌治療の最先端にいた彼女のこと、伝達システムなどを熟知しての決断だと信じることにしました。

そして、そこから2週間程度たったころ、フィンランド旅行がはじまりました。FBから、とてもよい眺め、最高の天気、美味しそうな食べ物の写真がアップされるたびに、よかった、よかった、奏功しているのだと思っていました。そうはいっても、辛い身体はあるはずだから無茶をしてほしくないことを願っていました。

やがて無事に帰国。ほっとしたのもつかの間、「入院をしました」「放射線なので元気です」「お昼、中央で食べるときがあれば来てください」との連絡。放射線で入院という言葉にいやーな予感がしました。

速攻で、お見舞いにいき、思い切って、「放射線ってどこにあてているの?」と聞くと「脳」、努めて冷静に「うん、そうか、ガンマ?」、すると「多発ででてしまって全脳照射をしているの」とのこと。驚いて、そして、彼女自身のショックの大きさを考えて、「脳は放射線効くし、しっかり治療を受けようね。」
そして恐る恐る「治験は?」と尋ねました。

「当然、ドロップアウト。脳転移がわかってしまったので。」

と悔しそうな顔で話をしてくてました。私はショックでショックで、凍りつきました。
「治療は?次の一手はどうするの?Gに戻れるの?」思わず聞いてしまうと「Gに戻そうかと思っている」と返事がかえってきました。脳転移がわかったのは、旅行の前日だったそうで、どんな気持ちで風景をみてきたのかなと思うと、涙がこぼれました。と同時に、活かせてくれた担当医に感謝の気持ちでいっぱいになりました。あのときしか、なかったと思います。

だけど、このときの彼女の身体は既にボロボロの状態。入院中は暇とのことで何回か病院周辺のお店に外出許可をとってくりだしました。

希望を探して

何か手立てはないか?でも治療にかかわることだから、私から下手のことは言えない。ましてや彼女は製薬企業勤務だから治験なんぞは私より知っているはずだし…と色々考えながら、ある信頼できる先生を紹介しました。その先生は、以前も名古屋にいた友人のセカンドを受けてくれた先生です。FBのメッセージで連絡をとり、電話で話をしたところ、ちょうど、翌日の外来枠が空いているとのこと。

速攻で池ちゃんに電話をし、とにかく、たまったものを全て吐き出すために、先生のところへ行きなさいと告げました。

翌日、「先生のところにいってきました。とてもやさしい先生でした。とても深い話をしたので、いま、消化中です。ありがとう」とメールがきました。あああ、何か解決策があったのかな?と思って少し安心をしました。すると、偶然、翌日に彼女の主治医と仕事で会う機会があったので、何気なく、「友人が先生の患者にいます。どうぞ宜しくお願いします」と言ったところ、「ひょっとして…」と言われました。ビンゴでした。
そして、この時点で、現状がかなり厳しい状態であること、かなり厄介ながん細胞であること、キャンサーボードなどにもかけ、できる限り彼女の希望をかなえようと院側も最大限の努力をしていること。でも、現実としての難しさもある。

「治したいけど、治せない」医師としての苦悩を初めて遭遇しました。

先生から聞いた話は、私が彼女から聞いていた話とはまた違っていたので、きっと心配掛けさせたくないからと話を避けたのだと思いました。しんどい話こそ、言ってくれたらいいのにと心の中で思いつつ、それは本人にゆだねることとし、主治医とあったことはその後、一切伏せました。(まぁ、一番最後の外来に『遠い親戚』と称して診察室まで入りましたので、そこでバレましたが。私は、医師にも『ちゃんと池ちゃんのこと、私がサポートするよ…』というメッセージを送るつもりでの付き添いでした。)

そして、再度、もとにもどって治療を開始することになりました。一回目の治療が奏功し、呼吸は随分と楽になったと思います。隣にいて、あきらかに体調がよくなっているのがわかりました。この頃、オケ練にも顔をだしたと思います。

私はというと、たまたま翌週、主治医にお会いする機会があったので、御礼を伝えると、状態は一時的なものでしかないこと、でもできる限りの努力はすること。かなり深刻な状態であるが、彼女の病気を知る様々な方から「なんとかしてくれ」と言われ、先生もつらいということを話してくれました。そして、私は、「ぶっちゃけ、そんなに悪いのですか?」と聞くと、「もって半年」と言われました。

えええええええ?半年?

半年後に、池ちゃんがこの世から消えてしまう?え?なぜ?どうしてそんなに深刻なことになっているの?だって、この前、TNBCになりましたって連絡がきたばかり。進行が早すぎる・・・。
私はどうしても耐えられなくて、旦那の後輩でちょうど一緒に仕事をしていたCさんにだけ電話をして状況を伝えました。

「しらないことにして、出来る限りのことをしよう」

そう誓い合ったのでした。

突然の電話

5月の上旬でしょうか?ある日曜日の夜、突然電話がなりました。



最初にでたのは旦那。そして、どうも知り合いのよう。「ぼくじゃないの?嫁さんのほう?ちょっとまって、いま、かわるから」といって「池ちゃんから」と受話器を渡されました。






久しぶりだし、どうしたのかな?と思って、「おおおおお、池ちゃん、どうしたん?久しぶりやねー!」と明るく電話にでると、「なおみさん、助けて!お願い、助けて!」と涙ながらの声。びっくり、こりゃタダごとじゃないとおもって、即座に自分の部屋へ行き、「どうしたん?なんか、あったんか?ん?話して。」と聞きました。



「実は、再発をしていてね・・・」、とここで頭をガツンとやられました。聞いてないよ、そんなこと。でもまずは冷静に、冷静に・・・「うん、うん、で?」、、、「薬がもうないの」、「え?」と私も大混乱。「日本では適応外薬の薬しか、もうないかもしれない。これを使ってくれる施設を探しているの。なおみさんなら、知っているかと思って…」



乳がんになったことは聞いていたけど、「治療も副作用もなくて元気」と連絡があったし、大学生のときに卵巣がんもやっていたから、たぶん、がんには注意をして検診を受けていたはず。だから、ずぼらな私と違って、絶対に早期発見なんだと思っていた。再発?薬がない? 意味がよくわかりませんでした。

「何人か知っている先生はいるけど、セカンドオピニオンでいってみる?本当に薬がないの?」というと、もう酔っ払いのように呂律がまわっていなくて、正常な状態ではない。
腰を抜かして「池ちゃん、大丈夫?そっちに行こうか?家、近いよね。顔みて話そうよ。」と言ったところで「ううん、大丈夫、ありがとう。いきなり驚かせてしまってごめんなさい。少し考えてからまた電話をする。また電話をしてもいい?」もちろんOKなので、携帯の電話番号を伝えました。

「いい、落ち着いて、ゆっくり。私も調べてから電話をするから!」



というと、涙声でありがとうとつぶやく声が遠くに聞こえる。
今思えば、このときのSOSは、胸水を3リットルためてしまい、水をぬいた直後だったのではないでしょうか?呼吸苦という症状がでて、再発という事実を症状としてはじめて経験したのだと思います。



その後、何人かの先生にセカンドを聞くために、病歴を教えてもらうと、どうも年数などがあわない。で、確かめて行くと、かなりの薬剤を使っている。これに驚いた私は旦那に聞いた。
「ねー、池ちゃん、再発してたって聞いてた?」と私。旦那は「ん?知らないよ。でも、なんだか入退院は繰り返しているみたいだけど」。



「あーーーーーーーーーーー?何故、それを早く私に言わないの!!言ってくれれば、もっと早くから寄り添えたのに!」



と旦那をしかりつけました。
乳がんって、簡単に治る的な印象で言われていますが、実は3人に1人が再発してきます。そして、再発転移は治りません。5年生存率はよいかもしれないけれど、確実に死にいたる病のひとつなんです。



この日から、毎日、池ちゃんと電話をすることになりました。

2015年10月26日 (月)

我が最愛の友の死

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我が友・池田陽子が24日の夕方、空へ旅立ちました。

 

まず初めに、困難な状況下、全力で彼女を助けようと努力をしてくださった医療関係者の皆さまに深く感謝をいたします。また、最後まで彼女の希望を受けとめ、不安や苦しみを和らげようと大きな愛で受けとめてくださった医療関係者、ボランティアの皆さんにも深く感謝いたします。そして、私のような人間が彼女の傍にいることを許してくれたご家族の皆様、ありがとうございました。

 

ASCO、もし時間があればプレナリーの1番見てきてください。なおみさんに10年前に『治る薬作ってよ』というリクエストをいただいたことへのひとつの回答につながれば幸いです。『治る』という言葉を使えるかどうかは、またあと10年かかるかもしれないけど、それを目指したいし、目指すのが臨床研究だと思う」

 

そう言われた今年のASCOなのに、私は約束を守れず帰国をしました。あなたではなく、患者会活動を優先しました。プレナリー、行けなくて本当にごめんなさい。

 

池ちゃんと私が初めて出会ったのは、私たちの結婚の準備のとき。かれこれ25年前。

人を惹きつけるキラキラした笑顔は、まぶしいばかりでした。会場の確保から移動手段、名簿づくりやプログラムまで、一手に引き受けてくれ、当時の恋人と仲睦まじく過ごす姿は今でも忘れられません。

結婚後は、お互い仕事に忙しく、あまり会う機会は少なくなっていましたが、メールで連絡をとりあったり。演奏会では、あなたの名前と姿を探し、いつも応援していました。直接会えた時間はとても限られていたけど、ずっと、心はつながっていた気がします。

 

2004年に私が病気をしたとき、あなたは、様々な資料を旦那経由で送ってくれました。今思えば、的確で、私たち夫婦にとっての安心材料のお守りになりました。二度目の手術を受けたときも、何度も連絡をくれ、そっと寄り添ってくれました。

そんなある日、あなたから突然メールが届きました。TNBCが見つかったこと、そして、これから治療に入ること、心配は要らないということが書いてありました。だから、今年の5月、HELPの連絡をもらったときは本当に驚きました。

 

亡くなる二日前、夜中に酸素パニックを起こしました。「家に一人でいた時に同じことがあり、助けをよんでも誰も周囲にいなかったこと。そのときの恐怖がトラウマになって、こうして夜中に目が覚めてしまう」ことを、細くなった腕でマスクを握りしめ、身体をガタガタ震わせながら話してくれたね。大丈夫、横にいるよってベッドに腰掛けたら、だんだん震えが収まってきて、互いの身体の温もりが心地よくて、そのまま二人で寝ちゃったけど、あたしゃあのときに風邪をひいただよ。

 

あなたの苦しそうな寝息を病室で聞くたびに、私の心は苦しかった。それでも、あなたの息が続いていること自体が嬉しかった。背中が本当に小さくなっちゃって、手にも足にも、頑張った痕がたくさんありました。本当によくがんばったのだと思います。

 

ベッドサイドでのカンファレンスで、「こんな身近に、本当に人生で大切な人がいることに気づかなかった。もっと早く、自分から近づいていれば良かったと後悔している」と話し、人から触られるのが大嫌いなあなたが、手を伸ばして私の手を握ってくれたとき、私も同じ思いでいっぱいでした。あなたの前では絶対に泣かないと誓っていたけど、あのときは涙が止まらなくて、止まらなくて。あれは反則だと思います。

 

「外来でなおみさんと一緒にいるときの陽子さんの表情が、子どものように安心しきっていて、なんて羨ましい仲だと思いました」と、あなたが空へ旅立ったあとに先生からメールがきたよ。お互いそんなことに全く気がつかず、まじニブすぎ。

 

『治る薬作ってよ』

あなたが、10年前に伝えた私の言葉を刻み、がん患者さんのために365日邁進してくれたように、私も、あなたからもらった宿題を胸に刻んで、解いていこうと思います。

ただ、今はちょっと心が欠けているので、少しの間だけ立ち止まる時間を私に与えてください。

私も強い人間ではないので、たまには私の傍にきてください。いつもの笑顔で抱きしめてください。今でも、心から、あなたのことを愛しています。ありがとう。

 

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