心の宝箱

2015年12月20日 (日)

介護保険

昨日の午前中は愛する友の形見分けというかスコアの整理をしてました。譜面にぎっしり書かれた文字にいろいろな思いや息遣いが聞こえてきて、妹のあっちゃんと盛り上がり、なかなか作業が進まず、あとは午後の旦那オケ部隊に任せて患者学会へ。



積極的治療を納得してやめた日の問診票や最後の希望にかけた日の問診票などがでてきて、「診察室はあんたの時間だから」とひとりで行かせたことに涙が出そうになった。

もう一つ束がでてきて、それがこの写真。最初にHELPコールが入ったとき、これまでの仲間の看取り経験から「これからの自分の生活のために介護保険の申請、しよう!」と伝え、文書係で一緒に申請をしたけど、その後、ひとりで場所さがしをしていたんだなぁと。



「こんな場所があります…って言うんけど、そこがどんな特色がある場所かは全然検証されていなくて、インターネット以上の情報、患者が一番知りたい情報がまったくないのよ。」と言ってました。「緩和まで見ない病院だからこそ必要なのに、今までここにきた患者はどうしたんだろう」と。

書き込みには審査のことやお金のことなど。彼女は、主治医から半年もたないと知らされた時点で介護保険申請を出したんだけど、「非受理」。
このときも「またダメだよ」と言いながらも、最後の場所探しを一生懸命やったわけです。で、結果は亡くなる4日前に「要介護1」。愚痴ひとつこぼさない彼女が初めて

「この状態で1かよ」

と吐き捨てたのに、私はなんにもできませんでした。そのときはポータブルトイレも電動ベッドも食事も酸素ボンベがつけられる車イスも清拭もあったわけで。

多くの仲間の看取りをしましたが、家族も寄り添えないような介護保険制度、届かない緩和ケアをなんとかすることが与えられたテーマです。

2015年11月12日 (木)

リスボン

人はいつか亡くなるものだとわかってはいるけれど、まだ感情の変化に身体が追いついていっていない気がする。



なんだか身体が気持ちから疲れてしまう自分がいることに気が付くようになっただけでも、昔と比べたらだいぶ成長したと思うけど。まだ結構、尾をひいているなーと思う。





2015年11月10日 (火)

久しぶりの病院へ

昨日、リスボンからブリュッセルを経由して成田へ帰国してきました。トランジットの時間も含めると、ホテルを出てから20時間!!うーむ、やはり乗り継ぎが入ると面倒ですね。

そして、夜は池ちゃんの看取りをした病院内で会議があったので、成田から直行しました。
久しぶりに歩く道、お店、薬局、ライトアップされた十字架、教会、院内の風景、渡り廊下。あああ、ここで夜に面会届けを何度も書いたな・・・あのときの全てが思い出されてきました。
でも、もう池ちゃんはいないんだなと、棺の中に楽譜と一緒におさめられた綺麗な姿を思い出しました。


会議は、看取りの祈りを一緒にしてくださった先生が主催です。私は時差ボケで頭はボサボサ、つっぴん、ねむねむの状態でしたが、開口一番言われたのが、

『この場所で大丈夫だった?』

という言葉でした。

嬉しかったです。そう、だって先生だってそうですよね。先生なんか、毎日そうですよね。と思いました。
『寂しいなと思うところはあるけど、ちょっと懐かしい感じもします。大丈夫!』と答えました。

2時間ほどの会議が終わって、一緒に外へ出たときに、最後の頃の話しを一緒にしました。そして、私が、『20年ぐらい、オケの演奏会で遠くから見かけたり、軽く言葉を交わす程度だった。再発してからも1年間、だれにも言わずにきて、最後に手をのばしてきてくれたことが嬉しかったけど、でも、泣いたり、苦しんでる池ちゃんじゃなくて、笑っている池ちゃんの姿をたくさん思い出に残したかった』と正直に言ったら、先生が、

『あなたは本当に、十分寄り添っていたわよ。』

『あなたは、いつも、いつも一緒にいたじゃない。陽子さんの笑顔をみれば、全てが伝わってきたわよ、あの安心しきった笑顔!あんな表情はなかなかみられないわよ。』と。
『ただ寄り添うということは、一番やさしいことだけれど、一番難しい。そして、一番大切で必要なことなのよね。』

そういって、留学時代の友人とそのまた友人との話をしてくださいました。

なんか、とっても嬉しかったし、癒すってこういうことなんだなって思った。ありがとうございます。

2015年11月 1日 (日)

小さな箱

明日からのリスボン出張に備え、池ちゃんの家に、お線香をあげにいきました。

小さな、小さな箱に入ってしまった池ちゃん。

寂しかった。そして、お父さん、弟さんと一緒に、昔のアルバムを見せてもらいました。山好きなお父さん、お母さんと一緒に、海、山、スキーと、アクティヴに活動する小さな池ちゃん。そして、バイオリンを始めてもったときの池ちゃんがいました。

色々なことにチャレンジをし、そして、コツコツと続ける姿に感動しました。生きる上で大切なことを知っていると思いました。そして、家族の愛、優しさが満ち満ちていました。

妹さんからは、池ちゃんが大切にしていた時計を譲り受けました。なんとなく、いつも一緒にいられて、池ちゃんいなくなってからも一緒に時間を刻めるもの。大切に、大切にします。

ありがとう、池ちゃん。

2015年10月31日 (土)

通夜

池ちゃんのお通夜に行きました。納棺したときにも、寂しい気持ちでいっぱいになりましたが、通夜という儀式になるとなおさら。ああ、本当にいないんだ…と。
エンディング・ノートには、葬儀に際して、香典・花は一切断るとありました。また、葬儀費用は預金からと。
負担をかけさせたくないという彼女の思いやり。

ただ、音楽については指定されていました。お通夜の最初には、カルテットの仲間と先生による四重奏が流れました。
「四重奏は四人揃わないとできないのです。池ちゃんの席には私が彼女のバイオリンとともに座ります」と先生が話し、始まりました。
皆がそれぞれの思いに包まれました。

私は翌日は癌治療学会のセッションがあるので、告別式には出られません。ギリギリまで傍にいさせてもらいました。棺の中に横たわる息をしない綺麗な池ちゃんが、もっと、もっと綺麗になって眠っていました。

もう声をかけても、起きてはくれない。

2015年10月28日 (水)

どこまで何を言うか

池ちゃんは、病気のことをなかなか他の人に言いませんでした。ってか、私にも再発から一年、黙っていました。どんだけ辛かったか。どんだけ我慢したのか。その気持ちを思うと、心がはりさけそうになります。



私は豊島オケの人たちには、一度、会いに行ったほうがいいのではないか?特に、一緒に旅行に行った人には病状を伝えてみては?と何回か提案しました。



池ちゃんは「でも、今の私をみたら、きっと皆がびっくりするだろうから」と言って、かたくなに阻みました。「池ちゃんは池ちゃん。何も変わっていないのだよ?」と言っても、首を縦にふることはありませんでした。



職場の人に対しては、さらに言い出しにくかったようです。そんな折、私が登壇した毎日新聞メディカルカフェのミニ講演に足を運んでくれました。私は職場のグリーフについて話をし、「自分は死んでも、周囲の人には生がある。その生を健やかにするために、自分自身が参加するグリーフがあり、職場の人に気持ちや病状を伝えることもありでは?」という話を、私は池ちゃんに語り掛けるつもりで言いました。
数日後にメッセが届き、「思い切って、今日、職場へ休職の挨拶へ行ってきます。」と連絡がありました。私は「池ちゃんの今の気持ちを添えてね。きっと伝わるから。」と送りました。



夕方、池ちゃんから「職場に行ってきました。勇気だして、言ってきて、良かったです。ありがとう。」とメッセが届きました。折り返しすぐに電話をすると、「そのままでいいから・・・ってみんなが言ってくれた。嬉しかった。本当にありがたいと思った。」と号泣しながら話してくれました。



入院をしたときにも、Cさんとかに伝えないでいいの?うちの旦那には伝えてもいい?といったら、「ホルンのおじさんはいい」と。当初、本人は退院する気まんまんだったし、Cさんのような医療関係者は学会が重なるいまの時期が一番忙しいことを十分、身をもって承知していたからの気遣いだと思いました。亡くなる二日前にも電話会議があり、会議の30分前にオプソ10mgを投入、息を整えていました。痛々しかった。



なぜ自分のところに連絡がないのだ?と思う人がいるかもしれません。でも、それは、池ちゃんがあなたのことが大好きだからです。大好きで、大好きで仕方がないから。そして、心配をさせたくないから、言わなかったのです。きっと、「池ちゃん」であって、「がん患者の池ちゃん」というように思われたくなかったのかなと思います。ふつう通り、今まで通りの池ちゃんでいたかったのかな。



誰にどこまでどういうかは、本当に難しい課題で、正解はありません。でも、そこには「思い」があるのです。









旅立ち

その日は出張でしたが、朝、なんとなく心配になり、メッセをいれました。すると、「ちょっと状況が悪いかも…」という知らせを妹さんからもらいました。前夜のこともあったので、後悔するなら会いに行け!と思い、旦那に「行くよ!」と声をかけ、あわてて二人で家を飛び出しました。私は、仕事先の方に電話をして、約束の時間より到着が遅れることを伝えました。病院には、9時に到着。新幹線の出発時間ギリギリまで病室にとどまり、顔をみて、目から零れ落ちる涙をふきました。



そのときは既に意識はほとんどなく、天国にいるお母さんと行く行かないの押し問答をしている感じでした。耳元で、「池ちゃん!」とよぶと、「はい」と返事は返ってきます。「なおみだよ、これから仕事にいくからね!」「はい」。



「夜、戻ってくるから、待っていてね!」



これには池ちゃんからの返事がありませんでした。その後、Y先生ご夫妻がいらっしゃり、池ちゃん額の汗をふきながら、3人で一緒に祈りを捧げました。安らかに。ただ、安らかにと。



それが私が生前の池ちゃんに会えた最後のときでした。前の晩、私に付き添いをさせてくださったご家族の優しさに、いま、本当に感謝をしています。



たくさんの宿題を彼女からもらいました。きつくても、壁にぶちあたっても、みんなの力をかりて。「治る薬を作ってよ」といった私のリクエストに彼女が応えてくれたように、私も恥ずかしくないように生きます。



Palver10




ありがとうございました。わたし、気がつかなかったけど、池ちゃんのこと、本当に愛していたみたい。

納得

酸素パニックの一件があってから迎えた金曜日の朝、トイレに行きたいというので、いつもの定位置にポータブルを運びました。もうこの頃には池ちゃんから排泄係を許可されており、「すんだ感じ?」と声をかけると「うん」と返事がありました。私は、着替えに必要な準備をしてナースコールを押し、ふと視線を落とすと、目の前に真っ赤な血が見えました。



え?



やがて、ナースがきて着替えをしましたが、ナースもそのことに気が付きました。あれ?と。そして、担当医が確認をしました。下血でした。明らかに便の外ではなく、中に血が混じっていました。
私はそれをみた瞬間、あああ、もう身体の中はこんなに悲鳴をあげていたんだ…と思いました。その後、担当医から大腸の下部で内出血をしている可能性が高いこと、出血によりヘモグロビンが減少すると酸素がさらに辛くなる、それは致命的にもなることから、止血剤を加えることを提案されました。そして、内服(一日3回2錠)か点滴(一日30分)か、どちらがいいか確認されました。すると、池ちゃんは内服を選択しました。「え?」と私は思いました。せっかく、24時間の点滴モルヒネに変えて、内服の煩わしさが減った矢先だったのにと。
でも、30年前、大学時代にプラチナ製剤を使ったことがある池ちゃんは点滴が嫌だったのかもしれません。ろくな制吐剤もなかった時代のプラチナ製剤…考えただけで気が遠くなります。





このとき、がんばっていた池ちゃんの肩の力がちょっと抜けた気がしました。



私は午前中に仕事があったので、雑談の後ハグをしてからそのまま出かけ、昼過ぎに病室に戻りました。池ちゃんの様子は、ちょっと飛ばしすぎではないか?というほどハイになっていました。モルヒネやステロイドの影響もあったかもしれませんが、いつもとは違うハイテンションぶりが心配でした。
担当医にもそのことが心配だと伝えましたが、「酸素が足りない状況が手伝っているかも」とのことでした。



そしてサプライズ。私のFBをみていた友人がお見舞いにきてくれました。それもバルーンと皿回しをもって。突然の訪問にびっくりしていましたが、皿回しをし、、、バルーンをもらって大喜びをしていました。そこへ、お世話になっていたY先生が登場(前の夜も朝も寄ってくれた)、「何、何やっているの?!!」と満面の笑みで、池ちゃんから皿回しを譲り受け、回していました。15分程度の短い時間でしたが、皆んなの気がほぐれた最高の時間でした。



そして、17時ころにサプライズ二回目。今度は、音楽隊です。
実は前の晩、9時過ぎにY先生がきて、三人でいろんな話しをしました。そして12月のパーティーで披露する音楽を「内緒ね」と聞かせてくれました。その曲を届けるために、病室へ電子ピアノを運びこみ、みんなで歌ってくれました。その後、チャプレンさん達とともに、皆でお祈りをしました。朝の憂鬱は消えていました。本当に最後の力を振り絞っていたのだと思います。



夕方に担当医のカンファレンスがあり、これまでのいろいろな話をしました。なぜY先生と接点があるのかという話になり、積極的な治療をあきらめたときの決断や迷い、そこまでの道のりについて振り返りをしました。



「ご家族もしらなかったでしょう?」と。

こういう共有がとても大切だと思いました。当事者が参加できるgriefだと思いました。池ちゃんも縁が縁を結び、偶然が偶然をひきよせ、今ここにあることを話してくれました。そして、その日の夜は妹さんが泊りました。



今となっては、家族全員がそろったあの数時間が、本当に大切な時間だったと思います。

出会いのイベント

入院していても、酸素だけは、どうしても85程度からあがらず、だんだんと本人も不安になっていました。そして、水曜日に主治医からカンファレンスがあり、レントゲンをみながら今の病状の説明がありました。



まず、池ちゃんに、「どこまで知りたいですか?病状だけか?時間なのか?」などが確認されました(とてもやさしく、でもしっかりとした声で)。池ちゃんは「私は強い人間ではないので、病状は知りたいけれど、これからどんなことが起きるかとか、どのぐらい時間がのこされているのか、そういった話は聞きたくない」と答えました。
主治医からは「わかりました。でも、家族には知っておいて欲しいこともあるから、ご家族には分かりやすく現状を伝えさせてください。いいですか?」「はい」。



そして、肺のレントゲンの写真をみながら、病状が悪化していること。悪化のスピードが速いこと。退院は難しいかもしれないことなどが告げられました。
私からはステロイドが効いていないということ、胸水を抜くことはできないのかの2点を質問しました。いずれも難しいとのことでした。



「もし、本当にそのときがきたら、どうしたいですか?意識のレベルを落とすことを優先しますか?それとも、多少困難はあっても、家族と一緒にいるという意識を残しますか?」
セデーションです。とても大切なこと。以前にも3人ほど肺メタの患者さんの看取りをしたことがある私は、その最後の辛さを知っています。それを、池ちゃんにはさせたくありませんでした。
「ただし、これは、本当にそうなるかわかりません。静かに意識を失われるケースもあるし、様々です。また、@@さんが希望されても、それが適切かどうかは、私たちも考えます。ただ、@@さんがどうされたいかという希望を聞いています」



池ちゃんはずっと考えたあと、
「再発したかもしれないと知らされたとき、内臓系か、呼吸器系かと思いました。呼吸器系は嫌だなと思っていたら、呼吸器でした。息ができないで苦しい思いをするのは嫌です。」「それは意識のレベルを下げることを優先するということですか?」
「はい、意識レベルは下げてもらってかまいません。苦しみは取り除いてください。」
そういいました。私は涙がとまりませんでした。なんでこんなにシンドイ決断ばかりをしなくちゃならんのかね、がんって病気は!そして、池ちゃんはしっかり考えていました。



その後、家族は別室に呼ばれました。私はついていくかどうしようか悩みました。このまま池ちゃんに寄り添っていた方がいいのではないか?と思いました。振り返って池ちゃんの顔をみたら、「行っていいよ。一緒に聞いてきて。」という顔をしていました。
主治医からは、「週末もてば・・・」の状態であることが告げられました。その日が近いことは覚悟をしていましたが、正直、私も驚きました。悔しかった。家族の前で私が泣いたら家族が泣けなくなると思って我慢したけど無理だった。「悔しいです。」とだけ言いました。



その日の夜は、私が病室に泊ることになりました。夜の仕事を終えてからだったので遅い時間になりましたが、毎朝恒例にしていたパンツみせイベント(この日はくまもんパンツ)をしたり、シャワーを浴びた後、下着姿で「着替え、着替え」と病室内をわざとうろついて茶化したり、普段通りを装いました。池ちゃんは、(呆れた顔で)いつもの笑顔でいました。



そして、長い夜が始まりました。





胸水の関係で、右側を下にしないと眠れないので、ずっと顔は私のほうを向いていました。少しおしゃべりをしていましたが、睡眠薬が効いてきたのか、やがて眠りに入りました。全身をつかい、肩で大きく呼吸する姿は、決して、寝心地が良さそうではありませんでした。
朝のメールで、「よく眠れた?」と聞くと、「うーーーーーん。どうかな?」と言っていた理由がわかりました。眉間にはしわがはいっていました。



マスクが邪魔なのか、無意識のうちに手で外そうとします。15分に一回ぐらいはマスクを確認しないと、ずれていたりする。それから、マスクの中や全身に寝汗をかくので、ときどき外してタオルでふきました。マスクが嫌なことは私も手術で経験済み。私もよく外してばかりいて、そのたびに看護師さんに直されていたことを思い出します。



思えば、池ちゃんはアジュバントの最中からの再発。だから、ずっと休薬期間がなかったものね・・・。全身、皮膚のあちこちに赤い湿疹ができていて、引っ掻き傷がたくさんありました。落ち着いて寝ていることはなく、常に腕で身体をかいたり、マスクをにぎったりの繰り返しでした。
「右の祖頚部にもなにかあるな」と日記にも書いてありましたが、頚部のあたりにも、あいつがいるのがわかりました。悔しかった。えぐりだしたかった。






ちょうど3時半ぐらい。私が一瞬寝落ちをしていたら、隣で動く気配がする。ん?いかん!っと飛び起きてみるとマスクが外れている!!えええ、あわてて、ナースコールを押して、マスクを探してつけてほっとしようとしたら、なんと、チューブが抜けている!
えええええ、落ち着け自分!「待っててね、池ちゃん、すぐに酸素いくから!!」と声をかけながら、まずは電気をつけて、チューブを手繰り寄せ、穴を確認してマスクに装着をしました。



OK!



前夜にあったチューブ抜き事件ってこれだったのだと思いました。その時点で看護師さんが登場。あああ、池ちゃんが言っていたのはこの時間差なんだなとわかりました。隣にいたのに気づくのが遅くて、ごめんよ。





その際、看護師さんからは、レスキューを使いますか?と何度か聞かれました。でも、池ちゃんは首を横に振りました。全身が大きくガタガタと震えていました。池ちゃんのそんな姿をはじめてみました。足の先から腕、背中、ガタガタと震えていました。
「大丈夫だよ池ちゃん、ひとりじゃないからね、私が横にいるよ。」そう何度も耳元で囁いて、崩れ落ちそうになる身体を支えました。



30分ぐらいしたら落ち着いてきたので、寝る?と聞いたら、くびを縦にふりました。そして、また寝ました。少し寝た後、空が明るくなってきました。「朝だ!」自分が手術をした日も、とにかく夜が早くあけてほしいと願いましたが、このときも同じ気持ちでした。



池ちゃんの目が覚めたので、おはようの挨拶をしました。池ちゃんは、私の手をとり、「何か夜中にあった?」と聞きました。私は、夜の一件を話しました。すると、以前も自宅で同じようなことがおきたときに、手をのばしても何もつかめず、声をだしてもどうにもならず、とても怖い思いをしたのがトラウマになっている。



「本当に怖かったの!」



こんなに激しい池ちゃんは初めてでした。「だから、なおみさんが大丈夫と言ってくれても、大丈夫って思えなかったの。怖いの。ごめんね、なおみさんだから言うの。怖いの。わたし、全然、大丈夫じゃないの。怖いの。」そう手を握りしめて何度もいいました。「ごめんね。本当にごめんね。逆に不安にさせちゃったよね。ごめんね。」そうお互いが謝りながら、抱きしめ合いました。



背中の癒着の痕が痛いのではないかと私が離れようとしても、池ちゃんは強い力で抱きしめてきました。だから、池ちゃんの気がすむまでそうしていました。10分ほどそうしてから、離れたら、「ありがとう」と顔をみあわせて言いました。お互い、泣き笑いの顔でした。









病棟での日々

病棟へ入った時、私たちは、酸素が確実に届いていないのでは?だから苦しいのでは?という判断でした。実際、別の器具に交換すると最大で85しかなかったspo2が92ぐらいまでいきなり上がったのをみて、ほらやっぱり!身体じゃなくて機械が悪いんだよ!そんな希望を持ちました。

入院初日の昼は、家族で食事にでかけました。帰ってきて回診。入院の手続きなど、やることがたくさん。あっという間に一日が過ぎました。「池ちゃん、パソコンもってきて、横で仕事をしてもいい?」そう聞くと「うん、いいよ」。
そしてその日から、私はパソコンを病室に持ちこみ、打ち合わせは病院内カフェという生活がスタートしました。こういうとき、個室は本当に助かりました。

初日の夕方には、足りない用品、下着類や気分転換をするために、車いすを借りて地下の売店へ行きました。買ったものは全部、池ちゃんの膝の上に置き、「おかーさん、おまけ買ってもいいですか?」とふざけて言ったら「えええ~!」と言われました。おだやかな時間でした。

翌、火曜日の朝、病院へ到着すると手書きのメモを渡されました。「ごめんね、買ってきてくれるかな?」、「うん、いいよ、車いす、もってこようか?」と言うと「ごめん、今すぐに必要なの」、その意味がわかったので「OK!じゃあ、いってくるね!」と売店へ速攻しました。
午後は屋上庭園へ車いすをおして出かけました。久しぶりの外の空気は気持ちよく、池ちゃんの表情も晴れやかでした。「入院して良かったね、やっぱり、大変だったと思ったよ、自宅での生活は」、「うん、私もそう思う」。そんな言葉が互いから出ていました。

水曜日、病室で仕事をしていると、池ちゃんが「なおみさんが、私のことで会社に行けないこと、会社の人たちは心配をしていないかな・・・?」と。思いもよらない言葉でした。「会社の皆には病室を事務所にすること、伝えてあるから大丈夫だよ。みんな、池ちゃんとの時間をたくさんもってくれと言ってくれているよ。だから、心配しないでいいんだよ。」と言いました。
それから、夜中のトイレ事件について話をしてくれました。「夜中にトイレに入ったら、立ち上がれなくなってしまって。。。一時間ぐらい看護師さんを手間取らせることになって、なんか、半分切れていた・・・」と苦笑しながら話してくれました。「え?何があったの?」「家へ帰るために入院しているのに、こんなことじゃ家に帰れなくなっちゃいますよと言われての。で、しみじみ、『あああ、そうだよな~。言う通りだなよな~』って思った」。

私は「池ちゃんがこの入院で達成したい目標は何?」と聞くと「動けるようになること」と即答。「そうだよね。でも、どのぐらいが池ちゃんにとっての動けること?」と聞くと「ずっと思案。トイレかな~」「だよね。そうすると、往復で10mは歩けるようになりたいね。」「うんそうだね」「50m歩けたら、玄関までいけるようになるね」「そうだね!!」

戻ってきてからはお昼寝。オピオイドが効いている間、少し眠気がでるので、うとうとと寝ていましたが、そのときも呼吸が苦しそうでした。苦しそうな声と一緒に呼吸をする姿に涙がでました。

「お母さんが同じ薬を飲んでいたとき、すぐ寝ちゃうので怒ったことがあるのだけど、そのときの母の気持ちがいまとってもよくわかる。悪いことをしたなーと思っている。」と言って、「お母さん、何で亡くなったの?」と・・・お互いの母親病気&看病話をしました。

ゆたかな、おだやかな時間がこのまま流れると思っていました。

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